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七夕とは何か?歴史、七夕の元になった話も交えてわかりやすく紹介

天の川とボート行事

 あなたは七夕の日はどう過ごしますか?

 一般的には、彦星と織姫が一年に一度逢うことが出来る日、笹竹に短冊を吊るして願い事をする日という印象が強いと思います。

 ですが、この七夕、本当は8月上旬〜下旬にかけての行事だったって知ってました?

 知ってそうで知らない、そんな七夕とは何か?歴史、七夕の元になった話、七夕飾りの意味も交えてわかりやすく紹介します。

 七夕についてもっと詳しく知りたいという方は、下記の記事を参照ください。

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七夕

綺麗な天の川

 それではまず、七夕とは何か?からお話ししますね。

七夕とは何か?

天の川左からバージョン
七夕(たなばた)

旧暦の7/7(現在の8月上旬〜下旬)に行われていた。現在でも同様7/7に行われている。彦星と織姫が天の川を渡り、一年に一度逢うことが出来るとされている日。一般的には笹竹に短冊を吊るし、願い事をすると叶うという習慣がある。

 現在の7/7は梅雨の時期に差し掛かっているため、雨が降り天の川を眺めることができないこともしばしばありました(仙台や北海道など8/7に七夕を行うところもある)。

 ですが、旧暦の7/7は、現在の8月上旬〜下旬であったため、彦星と織姫も安心して逢瀬を果たすことができたそうです。

 また、笹竹に短冊を吊るして願い事をするという習慣に関しては、「何でも叶う」ではなく、働き者の織姫にあやかって、「物事が上達するように」という思いから始まったそうです。

七夕の歴史

天の川横バージョン

 七夕とは中国から伝わってきた、「節句」の一つとなります。

節句(せっく)

年中行事を行う季節の節目となる日を節句と言い、古くは節日と言われていた

 年間に渡り様々な節句がありますが、特に大きいものとして「五節句」があります。

五節句

1月7日⇨人日(じんじつ) ⇨七草の節句
3月3日⇨上巳(じょうし) ⇨桃の節句
5月5日⇨端午(たんご)  ⇨菖蒲の節句
7月7日⇨七夕(しちせき) ⇨笹の節句
9月9日⇨重陽(ちょうよう)⇨菊の節句

 この7月7日⇨七夕(しちせき) ⇨笹の節句が、七夕(たなばた)となります。

 ですが、この「節句」という風習同様、七夕も日本には元々なく、中国から流れてきた二つの風習が元となります。

 それは、「七夕伝説」と「乞巧奠(きっこうでん)」です。

七夕伝説

 遥か昔、天上の東方に天女の7人姉妹が住んでいました。

 天女の織る布は天衣(てんい)と呼ばれていました。

 その天衣は羽織れば天地を思うままに行き来できるほどのものでした。

 天女の一人が言います

 「天衣を羽織って地上で水浴びをしましょう」

 その頃地上では一人の若者が貧しい生活をしていました。

 若者は早くに両親を亡くしており年老いた牛と兄夫婦と暮らしていましたが、兄夫婦との仲は良くなく、いじめられていました。

 ある日、兄夫婦に「お前にこの年老いた牛をやるから出ていけ」

 と言われ追い出されてしまいました。

 若者と牛は貧しいながらもなんとか生活していました。

 すると、牛がこう言います。

 「今日は天女たちが地上に降りてきて川で水浴びをします。その間にそっと天衣を盗んでしまえば、天女は天に戻れずにあなたの妻になるでしょう」

 それを聞いた若者は、川の木陰に隠れてじっと待っていました。

 すると、牛の言う通り、7人の天女が降りてきて水浴びを始めました。

 天衣は若者から少し離れていました。

 「素早く飛び出して天衣を奪うしかない」

 そう考え、若者は勢いよく飛び出し、天衣を奪うことに成功しました。

 それに驚いた天女は、すぐに天衣を羽織り天に戻りますが、天衣を奪われた妹の天女は戻る事ができませんでした。

 牛の言った通り、天女は天に戻らずに若者の妻になることを選びました。

 若者は田畑を耕し、天女は機(はた)を織って暮らしました。そのうち、息子と娘の二人の子宝に恵まれて4人仲良く幸せに暮らしていました。

 ですが、そんな幸せな生活も長くは続かず、ある日若者が家に帰ると、家の中には二人の子どもしかおらず、目には涙を浮かべています。

 その理由は…

 天の上帝が、天女がいつまで経っても帰って来ないことに怒り、神兵を送って天女を連れ帰ってしまったからです。

 若者は呆然としていましが、年老いた牛がこう言います。

 「天女を追いかけなさい。天に昇る方法が一つあります。私を殺して皮を剥ぎ、その皮を纏うのです。年老いた私をあなたは大切にしてくれました。私のできる恩返しはこれしかありません。早く殺しなさい」

 若者は、ずっと一緒に生活していた牛を、天女と結婚させてくれた牛を傷つけることができませんでした。

 若者が立ち尽くしていると、牛は自分で柱に頭を打ち付けて死んでしまいました。

 若者は泣きじゃくりながら牛の皮を剥いで纏い、二人の子どもとともに天に昇りました。

 すると、神兵に連れ戻されている天女が見えました。

 子どもたちが天女に近づき、袂を引っ張ろうとした時、天から巨大な手が伸びてきて天女と若者たちの間に一本の筋を引きました。

 その手の持ち主は、上帝の妹である西王母の手だったのです。そして、頭につけていた金のかんざしで筋を引いたのでした。

 すると、そこから水が溢れ出して大河となり、若者と天女の間に大きく広がりました。

 それを見た娘がこう言います。

 「柄杓で川の水を掬い取ろう」

 父と二人の子どもは流れる水を一杯一杯掬い始めました。

 それは途方の無い作業であることは間違いなく、父と子どももそれは感じているに違いないのです。

 それを見た上帝は、妻に対する若者の愛情と、母を慕う子どもの健気さに心を打たれ、毎年七月七日の夜だけ、夫婦親子が川を渡って逢うことを許したのでした。

 今も空には金のかんざしのように光る天の川を挟んで、若者=牽牛星(けんぎゅうせい)天女=織女星(しきじょせい)が輝いています。

乞巧奠(きっこうでん)
乞巧奠(きっこうでん/きつこうでん/きこうでん)

七夕の夜に輝く織女星が糸や針を司っていることにあやかり、手芸や機織りなどの技巧上達を願う行事。

 「乞巧(きっこう)」⇨技巧を授かるよう願う、上達を願うという意味
 「奠(でん/てん)」 ⇨神仏にものを備えて祀るという意味

 気になる内容は、七夕の夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通して、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を願う、というものだったようです。

現在の七夕の形になったのはいつ?

 上記二つの風習が日本に伝わったのは奈良時代とされており、当時は皇族の宮中行事として行われています。

 後に日本にて様々な要素が加わり、今の七夕の形になったのは江戸時代ごろだそうです。

 彦星のモデル⇨若者⇨牽牛
 織姫のモデル⇨天女⇨織女

 それにしても、彦星と織姫…

 子どもが居たのには驚きですよね。

まとめ

天の川とカメハメ波

七夕は今も親しまれている年中行事の一つ
願い事は、元は物事の上達を願うところから始まっていた
彦星と織姫の大スペクタクルアドベンチャーのおかげで現在の形がある

 以上で、七夕とは何か?歴史、七夕の元になった話も交えてわかりやすく紹介を終わります。

 他にも、【七夕】七夕にまつわる都市伝説、怖い話を4つ紹介します‼︎という記事もあるため、興味がある方は是非ご一読ください。

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